新城市(しんしろし)は愛知県東部に位置する奥三河の入り口にあり、豊かな自然に育まれた貴重な植物や動物の宝庫でもあります。

古道を巡る 秋葉街道鳳来寺道参詣道
~江戸時代道中記~

序(エピローグ)街道の成り立ち

徳川家康による天下統一が成るや幕府は道中奉行を設けて5街道を管理し、次第に道路
網を拡充していった。
通行人の裏締まりのため関を設置。「入り鉄砲出女」を厳しく調べた。
一方、脇街道の抜けみちも庶民の知恵でつくられ、ある程度自由な旅も可能であった。

庶民の旅も目的の筆頭は寺社信仰の参詣である。
伊勢参り、大山詣でなどに次ぐ賑わいの秋葉三尺坊と峰の薬師の参詣はこの地方の習俗に欠かせ
ない年中行事であった。
三代将軍徳川家光、四代家綱の二代で建立した鳳来山東照宮には参勤交替の大名の代参が通った。
御油と掛川を結ぶ山岳道、秋葉街道は全長27里(約100km)の信仰街道でもあった。

 

 

一 秋葉火防り(あきばひぶせり)信仰

秋葉山は神仏、両部信仰(りょうぶしんこう)の霊山である。
9世紀の初め頃に越後から修験者がやって来て、護摩修行(ごましゅぎょう)の行法によりて天狗に成る。
三尺坊大権現と名乗り、山の守護神として白狐にまたがり飛行自在の火防りの神と崇められてきた。

信者の信仰心が全国に広まりお札を求めて通うみち、秋葉街道が四方八方に伸びていった。
戦国時代に戦火で全山焼失の災禍にみまわれるが、徳川幕府の庇護を受けて再建される。
明治時代の排仏棄釈(はいぶつきしゃく)の嵐で、秋葉寺(しゅうしょうじ)が境内を追われて
山腹に仮本堂を建て、三尺坊本尊を可睡斎(かすいさい)に預けたが、毎年の12月15日の
秋葉の火祭りの護摩祈願祭を今日まで守り続けている。
山頂の秋葉神社は竈(かまど)の神様がご神体である。

二 遠州から三河へ

秋葉山を50丁下り戸倉より舟で天竜川を渡ると西川宿である。
1里余りの道のりで人馬引き継ぎ場の石打宿、さらに2里を隔てて熊(くんま)宿に至る。
ここで1泊するか、次ぎの神沢宿まで足を伸ばすのが当時のならいであった。
神沢、川売(宇連)大平、岡保か寺野を経て州境の峠に向かう二通りの山岳道は、道中で最も
危険で難所と呼ばれている。

道者は白衣に菅傘、金剛杖という出立ちで励まし合って危険な難所を行き来した様子がしのばれる。
州境といっても住民たちは生活範囲にあり、姻戚の繋がりが峠を越えて通いあっている。
七郷一色(ななさといっしき)から30丁余り、宿や茶店のそろった巣山宿に辿りつく。

三 巣山宿(すやまじゅく)

三州(三河)巣山宿は、山越えで汗を絞った旅人がホッと息をつける平地にひらけている。
秋葉道の中では門谷と巣山は旅籠の完備した観光地である。
日の残った頃に着いた旅人は山の神、荒神様、行者様、水神様、お諏訪様、氏神様、十王堂、観音堂を
巡って金竜山高福寺の阿弥陀如来に参詣する頃、ちょうど日が暮れ時で宿屋に入るという物見遊山の
のんびり旅を楽しんだ。

中には茶店もかねて名物の酒饅頭、おこわ飯、地酒や料理に舌づつみを打ったという。
夏の暑気払いに阿寺七滝まで足を延ばすのもここからの道であった。
繁盛した宿屋の裏に履き捨てた草鞋が山となっていたという語り伝えが残っている。

四 大野宿

巣山宿を出ると四十四曲り大難所と語り継がれた急坂が待っている。
下り切ると細川村六郎貝津村と長い在所を抜け、小さな峠を越えると大野宿に入る。
近在の生活物資が集まる大野は、商工入り交じった天領の商都として大いに栄えた。


昭和30年代頃の大野

草鞋を買い代えたり腹ごしらえや髪結床で身なりを整えたり、名物の硯石-鳳鳴石(ほうめいせき)、
砥石-三河白(みかわじろ)を土産に買いもとめ、行者越えまたは四十四曲りへ赴いた。
もう一つ大野の名産品には奈良時代の遠くから伊勢神宮へ献上されて一等品-赤引の糸(あかひきのいと)-
という栄誉な名前を頂いた絹糸がある。
優良な蚕と桑の葉に良質な水という三拍子が揃ったこの地方は、服部郷と昔から呼ばれていた。

五 行者越え

桐谷の渡しは大野の集落の北詰にあたり、地元の人達が板敷川と呼び慣らした通り、渇水期にはその板を
敷き並べた様な堆積岩に二枚の厚板を並べて置いてソロリソロリと渡る。


豊水期には引寺(地)の船頭が渡し船を操る。渡ればそこは鳳来寺領である。
なだらかな参道を沢に沿って行くこと30丁、登りにさしかかり見上げると行者越えという難所である。


ここには茶店があって一服した旅人は気を引き締め岩にしがみつき登ること1丁、頂きからは遠く三河湾を
望み、連なる山々は波のようである。
尾根づたいに3、4丁行き下ると峰の薬師の聖域である。

六 峰の薬師

大和時代、ここで修業した利修仙人(りしゅうせんにん)が、霊力でもって時の天皇の病を治癒した功に
より賜っ たとされる鳳来寺は、薬師堂を本堂とし天台宗、真言宗の2派両立の山岳修験の雲巌山(うんがん
ざん)である。
江戸幕府を開いた徳川家康公は母於大(おだい)の方の薬師信仰によって授かったとされ、家光発願、
家綱で完成された鳳来山東照宮が並び立つ。
大権現を参拝し峰の薬師に祈願して三重の塔の後ろにそそり立つ松脂岩(しょうしがん)の鏡岩(かがみ)を
仰ぎ見る。
ここより十二坊が左右に配置される自然石の石段を下ること9丁、樹齢数百年の傘杉、仁王門は繁栄の歴
史を語りかける。
この山を一躍有名にしたのが霊鳥ボッポウソウの啼き声である。岩山にこだまする甲高い鳴き声がNHKの
電波に乗って日本中に響き渡った。

七 門谷の宿

御油から、掛川からのどちらからも旅人はこの門谷の宿には一泊する。
門谷は宿と茶屋が連なり、旅人は旅の汚れを潔斎し疲れを癒して明朝の参詣や出立に備えるのである。
江戸は元禄の頃、新城の富商にして俳人の太田白雪の招きで三河に立ち寄った俳聖松尾芭蕉は、俳諧の
連歌(其のにほい…)に主賓として名句を残している。
白雪に案内されて鳳来寺参詣に出かけた芭蕉は持病の腹痛のために山に登れず麓の屋根屋に宿る。
寒さに震える翁に夜着(かいまき)を借りてきてくれたことを感謝した吟-“夜着ひとつ祈出して旅寝かな”
そして夜、寒風吹きすさぶ中の吟-“こからしに岩吹きとかかる杉間かな”は今も参道の石に刻まれ芭蕉の
足跡の証しとなっている。

結び 新城-御油へ

門谷を出て沢づたいに1里ばかりで追分茶屋があり、さらに7、8丁で豊川(とよがわ)を舟で渡ると滝川村、
銭亀村と続く。
更に大海村(おおみむら)、信玄村、設楽の古戦場を抜けて3里程歩くと、新城の街並みに入る。
山の湊(やまのみなと)「郷が原」は人家が多くて富商が軒を連ねている。
これより野田へは2里16丁、大木村へ3里、豊川(とよがわ)を左に見て原を2つと本野が原まで木立ない
ススキの原を抜けて、ようやく松原道を行くこと1里余りで東海道御油の往来に出る。
掛川より50丁を1里にして総距離27里(約100km余)。
脇参道、秋葉街道鳳来寺みちは「起伏深く、曲り多くして大難所なり。」と絵師の司馬江漢は「西遊旅譚(さ
いゆうりょたん)」に書いている。

余談 旅の危険と講札

道中奉行の管理下にあった5街道と違って、脇街道は庶民の移動が自由であったのと裏腹に相当の危険も
覚悟しなけれがならなかった。
病がおき、さて治療といっても大野に荘田家が医の稼業との記録があるぐらいで、持参の和漢薬が頼みの
綱であった。
巣山宿で俄かの病で亡くなった旅人の葬儀依頼の古文書が長篠医王寺に残されている。
また州界の山中で女同士の旅人が盗賊(ゴマのハエ)に懐中金品を脅し取られたことも言い伝えられている。
宿をとるにしても宿、旅人どちらも互いを確かめ合う術もなく、部屋が同宿同士の互いが疑心暗鬼で寝泊まりは
不安であったろう。
旅が民衆に広まった江戸時代も中頃になって今日の旅行共済保険のような「講(こう)」ができ、講が発行の信
用札(身分証明手段、信頼の宿証明等)の仕組みが生まれたようだ。しかし人目に付かぬ山中を行く旅は変わ
らず危険であった。

~この原稿は江戸時代の道中記とし、江戸時代を想いながら記したものです~

ふるさとガイド 菅沼昭博氏 寄稿